ここまで私について知ってもらおうということで、仕事について書いてきた。しかし、これは、じつは上辺の話だけである。言い換えれば表の部分だ。しかし、本当の私を理解してもらうためには、どうしても、私の裏側、負の部分も知ってもらう必要がある。 人間の最も基本的な部分は、幼少期からの環境、中でも家族によって大きく作られていくものである。そこで、私の子供時代や家族について少し知っておいていただきたい。 特に、ここからは、くらーい(笑)、子供時代や、いろいろな葛藤を持って生きてきた私の内面についてまとめてみたものである。なかなか衝撃的な内容なので注意して読んで欲しい(笑) 正直、こうした話を公開する事がいいかどうかわからないが、これまで、誰にも話したことのない私の家族についてまずは、書いてみようと思う。

父との数少ない思い出

私の父は、大正15年に香川県の、かなり大きな豪農の家に、10人兄弟の4番目の三男として生まれた。

高校卒業後、東海電波専門学校(今の東海大学)に進学し、レーダーなどの研究をしていたようだ。ちょうど、太平洋戦争の最中だったので、研究のため、学徒出陣は免れ戦争を生き延びることができたらしい。

ちなみに、父の兄(つまり私の叔父は)出征し、グアム島で戦死している。戦後、アメリカから遺品が返されてきた話が新聞に載っていた。

終戦後、父は首席で大学を卒業し、そしてそのまま、日本鋼管に就職する。その後、直ぐに同郷の母と見合いをして結婚した。
当時、花形であった造船業の有名企業、日本鋼管に勤めていたので、たくさんの給料をもらっているだろうと、母は勝手に思っていたようである。

ですが、いざ結婚してみると、給料のほとんどを実家に送金していて、靴下も1足しかなくて驚いたと言っていた。当時は、家族で働いて、家を盛り立てるのが当たり前の時代だった。

さて、1年後には女の子(つまり私の姉)が生まれるのだが、出産時のトラブルで、脳に障害を受け、結局、知的障害者として生まれることになる。その6年後に、生まれたのが私で父がとても喜んだと聞いている。男の子だったことと、普通に生まれてきたことがとにかく嬉しかったようだ。

その後、日本は高度成長に突入し、父は、いつも家に帰ってくる時には夜遅くで、父とはあまり話すこともなかった。

残念ながら、私には父との思い出の記憶は、じつは3つしか残っていない。
私が小学校1年の時に、母が入院し、その時に寿司屋に初めて連れて行ったもらったことと、小学校3年生の時に、伊豆の民宿に泊まりに行った記憶、そして、5年生の時の正月に餅つきをした記憶だけである。

なぜなら、私が小学校5年生の5月に、父が交通事故で亡くなったからだ。
父享年46歳であった。
突然の出来事だった。

父が、夜仕事から帰宅する途中に、酔っ払い運転の車にひき逃げにあって即死したのだ。
当時のことは今でも鮮明に覚えているが、夜中の3時くらいだったろうか。突然、母親に起こされ、「お父さんが死んだ」こう告げられたのだ。

当時、小学校5年生だったから、なんのことかよく判らず、ただ、ボーとしていた記憶がのこっている。あまり、悲しいという記憶もなく、ただ、いなくなった。そんな感じだった。もともと、感情を出すことがない子供だったから、親戚が家に、駆けつけた時に、普通に

「こんにちは、いらっしゃい」
と普通に挨拶して、みんながびっくりしていた記憶がある。

医師によって、父の死亡が確認され、遺体が、午前中には家に戻ってきたのだが、父は、ひき逃げで頭を轢かれて即死だったので、脳が飛び出し、ひどい状態で戻ってきた。頭の横に、白い布で包が置かれていてそこに、飛び散った脳漿が集められて入れられていた。

家に戻ってきた父の遺体の顔は、苦痛に満ちて引きつっていて、その顔は、今でも記憶に鮮明に焼き付いている。顔に血痕が飛び散り、目は見開かれ、口は苦痛に歪み、恐ろしくてたった、一度しか見れなかった。
その後、司法解剖が行われ、もう一度戻ってきたときは、苦痛の表情も穏やかなものに直されていて、すごくホッとした記憶がある。

火葬にされた後骨を拾うのだが、全身の骨のほとんどが骨折をしていてボロボロだったのを、一生懸命拾って骨壷にいれた場面も、未だに鮮明に蘇ってくる。

そんな経験をしても、お通夜やお葬式の時も、ほとんど感情を出すことなく淡々と、受付を手伝ったりして、かえって来場者の涙を誘っていたようだ。父の葬式は、盛大に行われ(当時造船業は花形だった)、すごい数の来場者だった記憶がある。

まあ、10歳の子供が健気に頑張っているように見えたのだろう。
本当は、何にも感じなくなっていたというのが正しいのだが。

その後、ひき逃げの犯人が捕まったが、特に、憎いとかいうこともなかった。もちろん、裁判なども傍聴していた。

母が、加害者に詰め寄って、ドラマの一場面のように
「お父さんを返して」
そう言っている姿をやはり、ボーッと眺めていた記憶がある。
こうして、10歳で私の父親との関係は終わってしまった。

普通であれば、この後、思春期を経て、父親との対立があり、それを乗り越えることで、自分の中に男性像や父親像が出来上がっていくものだが、残念ながら、私にはその経験がない。

では、どこから今の自分の父親というイメージが、出来上がっているかというとそれは、戦国時代の武将の生き方からだ。だから、私の理想の父親像は、族長である。
自分の家族(家族も族ですから)のために、豊かになり、そして、一度自分の内に入ってきた人は、全力で守り育てる。一族を統べ、全責任は、自分が負う。そして、自分の配下と家族を豊かにしていくことが族長の使命。そしてこれが、父親のあり方であると・・・

う~ん、こうしてみると、やっぱり少し変だ。歪んでいる。その父も、亡くなってもう50年以上が経つ。気がつけば、父親の年齢を既に、超えてしまっている自分が居る。

3歳の保護者として生きてきた

なぜ、父親の死に直面しても平静を保てたのか?
それは、そのように育てられたからだった。
といっても、ちょっと、想像つかないかもしれない。
これまで、誰にも話すことはなかったのだが、いい機会なので、私の子供時代の話を書いてみようと思う。

先にも書いたが、私には、6歳上の姉がいる。
生まれつきの知的障がい者だ。
どの程度の障がいかというと、服を着たり、食事をとったり排便をしたりといった基本は一人でできるが、それ以上はできない。
もちろん、読み書きはできないし、算数もできないから、金の計算もできない。
意思疎通は、簡単な単語は理解できる程度だ。

今でも元気だが、一人ではまったく生活することができない状態である。
重度の精神薄弱という障がいになる。

父親は、姉が生まれた後は、子供を欲しがらなかった。もし次も同じだったらと怖かったのだろうと思う。しかし、母親は子供を欲しがった。ゆくゆくは、姉の世話を弟なり妹なりにさせたかったからだ。

そして、生まれたのが私である。
だから、私は子供の時から、姉の保護者として育てられた。3歳になると、もう姉の手を引いて買い物に行ったり遊びに行っていたのだ。しかし、子供の世界というのはとても残酷で、近所の子供たちにキチガイと呼ばれて、二人して虐められていた。

まあ、自分が他人の親だったら、知的障害のある子供と遊ばすと、もし事故でも起きたら心配だから遊ばせないだろう。(今になるとよく判る)

おそらく、近所の親たちも、自分の子供に
「あの子たちと遊んじゃダメよ」
とか、おそらく言っていたのだとだろう。

それでだれも、遊んでくれない。

だから、
「おねえちゃんをおしいれにしまっておいて」
こう、何度も母親に頼むのだが、かえって、姉の世話を押し付ける母親だった。こうして、私は、幼稚園に行く頃から、姉の保護者として振舞うようになる。

一度だけ、幼稚園の年中の時だ。
「おねえちゃんなんか大嫌いだ」
そう言って、家のガラスに物を投げて割ったことがある。
どうしても耐え切れなくて、感情が溢れ出てしまった時だ。
この時も、一方的に酷く怒られ、責められた。私が、4歳の時の話だ。

この時からだ。
私は、一切の感情を表に出すことを止めてしまうようになった。

家族の中の絶対的な弱者の存在は、甘えることや、自分の好きなことをするといったことを、たとえ幼い子供とはいえ一切許されなかったのだ。とにかく、いい子にしていないと自分の存在が許されない状況であった。

さらに、親戚も口を揃えてこう言うのだ、
「おねえちゃんをしっかり面倒見なきゃね!」
3~4歳の幼稚園児に対してだ。

本当は、面倒見てもらいたい年齢であるはずなのに、こうして保護者としての生き方を母親や周囲から強要されていった。しかも、外に出ると、虐められるので、だんだん家の中で引き籠もるようになる。この頃から、軽い引き籠もりになった。(これ、今でもそうした傾向がある)

それでも、小学校に行くようになると、自分だけの生活が生まれてくる。
自分の存在をどうやって認めてもらえるか?
これが、次の課題だった。

自分でこう書くのも何だが、とにかく勉強が出来た。成績も、小学校時代はずーっと学年で1番だった。なにせ、引き篭もりがちで、家で本ばかり読んでいたから、勉強はできたのだ。毎年、終業式の時には、学年の代表として、通知表を受け取っていた。よくいう総代というやつだ。

表彰されて、喜び勇んで、母親に報告する。
すると、必ず言われたのが

「おねえちゃんが普通だったら、
あんたなんかよりもっと勉強は出来たはずだ。」
こうした言葉だった。

今考えると、ものすごい理屈なのだが、

「お前は、知的障害者の姉より劣る子供だ!」
こうずっと暗に言われ続けたのだ。

それでも、子供だから、認めて欲しくて、もっと頑張って、いい成績を取り続けた。いまだったら、絶対にそんなことしないだろうが。

もし、あなたにお子さんがいらっしゃったら、ぜひ、褒めて認めてあげて欲しい。親に褒められたり認められるのは、子供の一番の願いなのだから。

育児放棄をされて育つ

さて、この頃は、自分の居場所がなくて、とにかく辛かった時期である。当時の写真を見ると、いつも泣きそうな顔をしている。実際に笑っている写真が一枚も無い。いつも辛そうで、眉をひそめて泣きそうな顔をしている。
今、考えると、一種の虐待をされていたのだ。

そして、いい成績を取り続けたのには、もう一つ理由がある。
それは、自分の身を守るためでもあった。とにかく、キチガイの弟と言われて、虐められていたから、自分の能力を公に示さないと居場所がなかったのだ。
そういう意味でも、毎年、総代になって、全校生徒の前で表彰されることが必要だったのである。何年か、総代を取り続けていると、さすがにあまり虐められなくなった。

さて、母親は、仕事に出ていて父親はいつも遅くに帰ってくる。毎日が、そんな生活であった。別に経済的に大変だったわけではない。
父親は、日本鋼管に勤めていましたし、住んでいたのは社宅だった。
近所のどこの家よりも早く車を買ったりしていたから、母親が仕事に出ていたのは、経済的な理由ではなく、おそらく現実を見たくなかったのだろう。

それで、学校から帰ると、姉の面倒を見るのが私の仕事だった。
3歳からず~とだ。

外に遊びに行くと虐められるし、結局、家に居るしかなく、もちろん家には誰も遊びに来ない。そのため、私には、小学校時代の友達が一人もいない。

まあこの、友達がいないことが後に幸いするのだから、人生は本当にわからないものだ。

さらに、小学校の1年生頃から、私は、ひどい喘息にかかる。母親がまったく、片付けとか掃除ができない人で、家の中がひどいカビだらけだったので、まあ、当然なのだが、頻繁に喘息の発作を起こして、苦しんでいた。

喘息の発作は本当に苦しくて、息ができないので、とにかく全力で息を吸うことになる。そのおかげで、腹筋はボコボコに割れていて、高校まで、スポーツ何やってるのってよく言われていた。何もスポーツはやってなかったのだが、とにかくすごい腹筋していた。
今では、脂肪でお腹が割れてポヨポヨで見る影ないのだが。

そんな幼稚園や小学校時代を過ごしたせいだろうか、この頃から、とても大人びた子供になっていく。感情を表に出すことなく、とにかく「いい子」であるように振舞う癖がついてしまったのだ。

もちろん、楽しければ笑うし、悲しければ泣くが、怒ることはほとんどしなくなった。そんなことをしても、いい結果にならないことは、この頃から、身にしみてわかっていたからだ。

小学校の高学年では、既に
「自分の人生ってなんだろう」
「人は、何のために生きているんだろう」
そんなことを考えている変な子供だった。

父親の死に対して平静でいたというより、実際には、あまり感じなくなってしまっていたのだろう。父親の死に対して、平静にいられたのは、こうした背景があったのだ。

そして、この父の事故死をきっかけに、生活が一変する。
父親が交通事故で死に、我が家は、経済的にかなり困窮することになる。
一家の大黒柱が、無くなり、準生活保護家庭になって、給食費とか文房具とかが支給されるようになると、それでまた虐められるようになり、もう悪循環であった。

しかし、悪いことばかりではない。
父親が死に、母親が働くしかなくなると、姉を施設に入れることができるようになった。それまで受け入れてもらえなかったのが、優先的に受け入れてもらえるようになったのだ。そうしないと、母親が働けなかったからだ。(ちなみに私はまだ小学生)

おかげで、私は、姉の保護者という役目をしなくてよくなった。
完全に開放された気分だったし、これで、自分が大事にされる。
そう思っていた。
ところが、自由になったのは、母親も一緒で、仕事に行っていつも帰りが遅くなる。飲み会とか、カルチャースクールとか、母親は、遊びまくっていた。そして、また、一人ぼっちになった。

母親が遅くまで帰ってこないため、一人で家で留守番することが多くなり、食事も自分で作って、さらに自分で弁当を作って学校に行くことも多くあった。完全に育児放棄されていたのだ。

不登校で引き籠もりとなる

そして、中学校の1年の時には、学校に行けなくなった。
今で言う不登校になった。
原因は、いまだによく判らない。
なんとなく覚えているのが、一度病気して学校を休んだあと、急に孤独感を感じて学校に行く気がしなくなった記憶がある。

もちろん、ただ、それだけが原因ではなく、いろんなことが重なり、学校に行くことができなくなったのだろう。ただ、このあたりは記憶がまったくない。おそらく、自分の中に、いまだに封じ込めてしまっている何かがあるのだろう。

不登校(当時は登校拒否と言っていました)になると、普通は、こういう時、悪い友人が遊びに来て、悪事に誘ったりするものなのだが、なにせ、友達が誰もいなかったのだから、心配してきてくれる友達もなく、悪の道に誘う友達もいない。

さらに、夜遊びしようにも、田舎すぎて真っ暗でどこにも行けない。
裏は山だし、街灯もあんまりないし、今と違ってコンビニなど無いから夜出かけることができない。
仕方がないので、家にひたすら引き籠もりになる。

家で何するかというと、今みたいにゲームとか、ネットとかないので、ただ本を読むしかなかったのだ。
一応、それでも興味本位でタバコ吸ったり、シンナーやったり、万引きしたりはした。
(もう時効なので告白しておく)
これは一人でやっても、ほんとつまらない。

悪い仲間とやるからきっとでハマるのだろう。
結局のところ、家にこもって、やることないから本を読むしかない。
そのころ家にあった百科事典(当時必ずどこの家にもあった)まで読みふけっていた。

あと、父親の大学時代の本も見つけて読んでいた。
この時に、物理とか数学の本があって、中学2年の時には、大学生用の「微分・積分学」などを読んでいた。だから、ほとんど学校行かなかったのだがテストだけは、すごくできた。(中学くらいの内容は、百科事典に全部出ていた)これが、後でじつは問題になる。

そんなこんなで、中学1年の後半から、3年の前半までほとんど学校に行けない状態が続く。しかし、テストの日だけはさすがに、サボらずに出席して受けていた。なぜそんなことをしたのかは不思議なのだが、ここを休んだら、かなりまずいと子供心に考えたようだ。

普通であれば、出席日数が足りないので、2年生で留年になるのだが、校長先生に呼ばれて宣告されることになる。
「この成績だと、留年させられないので、自分で選んで欲しい。」
(意味わからない・・・)

つまり、学力は十分すぎるので(笑)、これで進級させないと、ほとんどの生徒が進級させられなくなる。もっと成績悪い生徒が進級していくのに、成績がずば抜けていて進級させないのは問題になる。
だったら、あとは、強制はできないので、自分で進級するか留年するか決めるように言われたのだ。まあ、当時は、けっこう適当だったのだろう。今だったら確実に留年である。

このように、知識だけは家の本でまかなえていたので、テストで苦労することはなかった。ただし、一教科を除いては・・・

家にひとつだけ無かった種類の本がある。
それが英語だ。
当時は、今と違って中学から始まる学科なので基礎もない。
さらに、家に本もない。だから、英語の点数だけが悲惨な状態だった。
まったく、知識もなく授業にも出ないままテスト受けていたから、100点満点で7点とか・・・ものすごい残念な点なわけだ。

主要5科目のうち、4科目はほぼ満点で、英語だけ一桁、すごすぎて笑っちゃう。
これが、まあ、あとで進学の問題に響いてくる。
ちなみに、今は、英語大好きだ。海外ドラマも、字幕無しで理解できるし、日常会話程度であれば、まあ困らないくらいである。

さて、高校進学の時期になると、総合特点は、地域で1番の公立の進学校の特別進学クラス(半数ぐらいが東大に行く)に余裕で届いていたのだが、英語の点数が足りないのと、出席日数が問題になる。

まあ、そうだろう。
なんじゃこりゃってくらいのバランスの悪さだ。結局、希望した公立高校への進学は諦め、私立の高校に進学する。
家に金は無かったのだが、おかげで授業料が免除(特待生)だったし、さらに、奨学金を受けることができたので、問題なく進学することができた。
(これ、大学も同じだ。ありがたいことである。)

占いにどっぷりとハマる

しかし、この頃は、精神的に本当に苦しくて、どうしていいかわからない時代だった。
(じつは、子供時代の記憶がかなり飛んでいる。とにかく辛い時期だったから、記憶を封じ込めているようだ。この文章を書きながら、すこしずつ思い出して来たが・・・)

「自分は、何のために生きているのか?」

おそよ、子供らしくない問いだが、本当にこんなことで悩んでいた。
だから、占いなんかにもはまることになる。
最初は、簡単なよくある簡単な本をきっかけに興味を持ち、どんどん、のめり込んでいく。

自分はどう生きたらいいのか?
真剣に悩んでいた時代だった。

特に、四柱推命にはどっぷりはまり、20代の後半には、占い師の認可ももらった。奇門遁甲(いまでいう風水)や易も身に付け、自分で言うのもなんなんだが、かなり当たる。

その上、台湾から漢文の原書を取り寄せたりして、まあ、オタク道まっしぐらだった。
この時期は、もう手探り状態で、占いから、だんだんオカルト方面、宗教方面にまでさまよい歩くことになる。

東洋で飽きたらず、西洋の魔術系にまで手を出し、家の中に、オカルトグッズが溢れかえっていた。
さらに、いろいろな宗教団体にも入ったり出たり、ニューエイジサイエンスなんどにも傾倒し、同人誌などにも連載を持っていた。
今だったら、別の世界のカリスマになっていたかもしれない。

さて、私の子供時代は、こんな感じだったのだが、もうひとつだけ重要な要因がある。父・姉・自分ときたら、そう母親だ。

13/母親を何度も殺そうとした!

私は、母親が嫌いだ。
そして、これまでに何度も殺そうと思った。

なぜそうなのか、そして何があったのかを、お伝えする前に、まず、母親の生い立ちについて少し書いておくことにする。

母親は、四国の香川県のある旧家の4人姉妹の次女として生まれた。
母親の生まれた家は、もともとは呉服屋で、父は校長先生、母も先生、祖父(私の曽祖父)は村長、そんな、割と裕福な家庭だった。
そんな家に生まれたために、母は、とにかく厳しく育てられたようだ。

4人姉妹だから、長女は跡を継がすために、甘やかされて大事に育てられたが、2番目の母は、とにかく相手にされたくて目立ちたかったようだ。
その為に、子供の頃から、進んで目立とうとしていたようだ。

「おまえが男だったらよかったのに」
父親(つまり私の祖父)に、いつもこう言われて育てられたそうである。

「男になんか負けない」
これが、母親の価値観の一番最初に刷り込まれる。
母親は、子供の頃から、男女関係なく自分に逆らう相手がいると、とにかく虐めていたようだ。(わかりやすく言うと、「どらえもん」にでてくるジャイアンみたいな性格である。)

とにかく、自分が一番でなければ気が済まない。だったら、努力して追い抜けばいいのだが、そうではなく、まず相手を引きずり下ろしにかかる。どんなことをしてでも、誰よりも目立ちたい、自分が一番でいたい。これが、母親の考えの基本なのである。

当時は、女性が就職したり、大学に進学したりするのは、認められない時代だったので、女学校卒業とともに、父親と見合い結婚をすることになる。
しかしなまじ世間を見ずに結婚したために、性格はそのままで井の中の蛙のまま、自分が一番じゃなければ気が済まないままだ。

一度でも社会に出るなり、大学に進学するなりしていれば、世の中には、すごい人がいっぱいいるということを身をもって知ることができるのだが、その機会を無くしたためだろう。今でも、自分が一番優れていると思っている。

そんな母親なので、結婚しても旦那である父親を馬鹿にしていた。

「自分は、仕方なく結婚したんだ。
 本来ならもっと上に行けたのに。」

私もよくこんなことを聞かされていた。
ちなみに、占いの世界では、このような性格を後家相という。夫を立てることをせずに、馬鹿にして足を引っ張る。たいてい、旦那さんを早く亡くした人は、こういった性格をしている人が多いものだ。(もちろん全部ではない)

さて、そんな優れているはずの自分が、障害児を生むことになる。
これは、もう、ありえないことだ。
そのこと自体が自分自身で認められない。だから、なるべく家に居ないような理由を作ろうとした。仕事などの理由をつけて外にばかり出ていたのだ。これが、私が3歳で姉の保護者にさせられた理由である。

そして、父が亡くなってからは、経済的には大変になったが、反面、母は、自由にもなった。誰に気兼ねなく、自由に生きることができるようになったのだ。

仕事をして得た金は自分で好きなように使えるし、誰にも気兼ねせずに自由に振舞うことができる。さらに、障がいのある姉を施設に入れることができて、自分を縛ってきた鎖もなくなる。もう、完全に自由なのだ。
だから、仕事に出てもいつも遅く帰ってくる。飲み会に参加したり、いろんなサークルに入ったりと、まるで、未婚の独身者のように振舞っていた。

当時まだ、30代の後半だから、まあ気持ちはわからないでもないが。そして、結局、私は、遅くまで一人で留守番である。小学校の高学年から、一人でご飯作って食べ、弁当も、自分で作って学校に行くことになった。

だから、私は、家族で過ごすということを、ほとんど知らずに育つことになる。
その分だけ、孤独には強いのだが。

「父親が死んで、大変ではあったけれども、
 自由になれて嬉しかった。」

これが、母親がよく私に言っていた言葉だった。

そして、

「全ては自分の手柄。
全ては、自分だけがすごい。」

これが、私の母親の考え方である。
そして、これは、夫だけではなく自分の子供に対しても同じだった。

魔界人と天界人の転生

私は、早くから、不動産投資を行っていた。
これは、邱永漢氏の影響だ。

その不動産投資も、当時大学生だった私が勉強し、調べて、現地を見て、場所を選定し、銀行との交渉や契約手続きを行っていたが、実際の取引は、まだ銀行に対する信用もなかったので母親の名義だった。

もちろん、母親と相談しながら事業を進めていた。
(この頃は、まだ母親の性格や考えをよく理解できていなかった)

後に、会社を設立して、会社として全体の事業を運営をしようとした時に、母親が、名義が自分のものだからといって、不動産収益は全部自分のものにする。しかも、管理業務は全部会社の仕事としてやらせて、その費用は払うことをしなかった。

まあ、それでも、家が栄えてよくなるならと私は我慢していた。
これは本当に一例で、それ以外にも多くの我慢することがあったのだ、その我慢もぶちきれる時が来る。

これは、不動産会社をやっていた当時のことだ。当時、私は女性の営業マンを中心に育てていた。(当時まだ、女性の不動産営業は珍しかった時代だ)

独自の営業手法を確立し、そのバックアップのシステムを作ることで、高校もまともに出ることができなかった女性でも2年も経てば、全国でも10位以内に入る売上を出せるようになった。ところが、せっかく教育をして、育った営業の女性がことごとく辞めていくのだ。

最初は何が起きているかわからなかったのだが、ある日、出張で出かけていた時に、その営業の女性から泣きながら電話がかかってきた。会長にひどいことを言われたと泣いている。(会長というのは母親だ)

私がいない時とかに、優秀な人を、とにかくいじめ抜いていたのだ。
それもかなり陰湿でひどかったようだ。
とにかく自分よりすごいと言われる人(男女とも)は、許せないようで、あることないこと、言いふらすわ、面と向かっていじめるやら、めちゃくちゃだったようだ。

後から当事者に聞いてみたら、私とできている(肉体関係がある)だの、お客さんとできてるだなど、よくわからない誹謗中傷や噂を流しまくっていたようだ。
(私がそんなにもてるはずもない)

その反面、こいつは使えない、どうしょうもないという人には、優しく接して慕われていく。とにかく、自分が一番になれる環境を強引に会社の中に作り出そうしていた。

さすがに、一生懸命育てたトップセールスの営業が、次々と辞めていった時には、もうこれはダメだと思ったのだ。

その後、不動産業を閉めるのだが、急に閉めたたために、かなりの借金が残ることになる。

その時に、母親が、私にこう言ったのだ。

「知り合いの息子さんは、事業が失敗して借金が残った時に死んで保険金で払ったそうだよ。」
そんな話を何度も何度も私にするのだ。

あたかも、お前もそうしろと言わんばかりである。なぜ、自分の実の親が、そこまで言うのか。これには非常に苦しんだ。

人間というのは、何度も何度も同じことを言われ続けると、そう行動するほうがいいようにだんだん思い始める。

「いっそ、保険金でスッキリ精算してしまおうか!」
本気でそう考え始めたのだが、ある時、ふと気がつくことになる。
それって何かおかしいと。

ちなみに、私がこれまで関わって作り上げてきた資産は、母親の名義のままになったままの不動産投資物件など含めると、相当、プラスなのだ。
ただ、その一部を処分すればいいだけの話である。

そこで、その話を持ちかけますと、

「死んでも不動産は売らない」
とまあ、こんな状態である。この人さえいなくなれば、もっと自分は、簡単に生きていける。そう判ると、階段から突き落として、自分の母親を殺そうと何度も思った。
誰も見てないからバレない・・・。

本気でこう思っていた。
それも一度ではなく何度も

そんな時に救われたのは、あるTVでの美輪明宏さんの次のような言葉だ。

「現世に生まれてくるのは、いい人間だけではない
 天界から生まれ変わってくる人と
 魔界から生まれ変わってくる人がいる。」

この言葉を聞いて、得心がいったのだ。

「そうか! 自分の母親は魔界人だったのか・・・」

まあ、それが事実かどうかなんてわからない。
たまたま、この世に生まれてくるための便宜上肉体上の母として、生まれてきただけで、母親だから、自分のためを考えてくれるはずなどということはないと、やっと納得したのだ。

しかし、こう思わなければいけないというのも、子供としては、かなり辛いものがある。
この人と一緒にいてはダメになる。だったら、仕事も人生も捨てて全て変えよう。
このことをきっかけに、こう決心したのだ。このTVを見なければ、もしかしたら、一線を踏み越えてしまっていたかもしれない。(幸い、母は、まだ生きている)

私の子供の中学校進学を理由に、一緒に住んでいた実家から出て、別に暮らすようにした。ここで初めて、親からの呪縛を逃れて、少し自由になったのだ。

全てを整理し無一文となる

これまでの私の、プロフィールを読まれた方は、なぜ、上手くいっていた不動産業を続けないのか不思議に思っただろう。

とにかく、母親との関係を断ち切らないとどうにもならないことに、この時点でやっと気づいたのだ。
ところが、いざ母親との関係を切りたいと思っても、現実はそんなに簡単ではなかった。なぜなら法律によって縛られているからだ。これは、戸籍の問題ではない。不動産投資を行っていたために、連帯保証人として名前を連ねていたからだ。母親名義の不動産の借入金の連帯保証人となっていたためである。

そして、もう一つの問題が、将来に起こるであろう相続の問題である。
母親名義になっている不動産がかなり有ったのだが、母親が死ぬと、私と障がいのある姉に相続される。そうなると、姉に後見人が付き、まともに運用ができなくなる可能性があった。

さらに、母親が高齢になってくるにつれ、ボケはじめた。
アパートの管理もまともにできなくなり、金銭の管理も怪しくなってきていた。銀行の担当者はしきりに、私に早く管理を移行するように勧めてくれていたのだが、母親は頑として聞かなかった。

すべての財産と借金を整理する

将来的な相続を考えたら、早くに家族信託等の制度を利用して管理を移したかったのだが、これも頑として聞かなかった。

銀行の担当者と3人で話し合いをした時には、
「そんなことするくらいなら、全部売って老人ホームにはいる」
そう息巻いていた。
この時私は、銀行の担当者と顔を見合わせて、もう無理だと悟ったのだ。

それから半年くらいしたら、母親は完全にボケた。
そして施設に入り、成年後見となった弁護士から一通の通知が届く。

その時、私が住んでいたところが母親の名義になっていたために、立ち退きを要求されたのだ。その弁護士によると、どうやら勝手に占拠して住んでいると母親が言っていたらしい。呆れて、もういまさら怒る気もなかった。

こちらも弁護士を立てて、すべての財産と借金を整理することにした。
もうこれしか道は無かった。かなりの損失が起こることは覚悟の上である。

たとえ、任意整理だったとしても、不動産を処分する際には、叩き売ることになる。
なんとかマイナスを出さないようにしたかったが、それでも全ての不動産だけではなく、持っている全ての預金も吐き出すことになってしまった。

不動産は資産とは呼べない

よく不動産を資産と考える人が多いが、不動産はおよそ資産とは呼べない。
なぜなら帳簿上の価格と、実際の売買価格が、状況によって、大きく変動するからである。必要なときにすぐ現金化できないものは資産とは呼べないのだ。

ロスチャイルドなどは、「持って逃げられない不動産は資産ではない」とまで言っている。

さて、1年以上の時間がかかったが全てを精算し、処理が終わった時には、私は、ほとんど無一文になっていた。結局のところ、母親を完全に断ち切り自由になるためには、すべてを一度捨てないといけなかったのである。

私は、これまでの人生で、二度無一文になっている。
最初は会社を閉めることになった時である。

この時は、母親は不動産の賃貸でかなりの収入を得ていた。普通であれば、家族なのだから多少なりとも支援をするのではないかと思うのだが、絶対にそんなことはなかった。

私たち家族が一日1,000円で暮らしていた時期である。
この時は、金がなくて昼を抜く日も多く有った。
そうした時に、姉と二人でやってきて、五袋入りのインスタントラーメンを持ってきて、昼食べてないから作ってくれと言うのである。
仕方なく冷蔵庫の中にあった有り合わせの野菜や卵を使って作って出したが、帰りには、残った3袋のインスタントラーメンを持って帰った。
もう、怒るどころかあまりのことに笑えてしまった。

だから、アパートなどの不動産を損して叩き売ったとしても、そこで、無一文になったとしても、もったいないというより、むしろ清々した気分だった。
母親との縁が切れると思えばなんということもない。

たとえ、すべての財産を捨てたとしても、この世界の原理原則が理解できていたら、すぐに復活することができる。仕事ができなくなったわけではないのでなんとでもなると思っていた。

現に少し経った今は、金銭的には十分に豊かだと言っていい。

おそらく、人間関係で最も厄介なのは、親子関係であろう。
この文章を読んでいる人の中にも、親からの理不尽な扱いを受けて、つらい子供時代を送った人や、人間関係に悩んでいる人、上司に恵まれない人、友人や共同経営者に裏切られたり騙されたりした人、人生で不当な扱いを受けてきた人など、数多くいるだろう。

でも、どこかでそれを乗り越えなければならないが、そんな時は、やはり赦すしかない。
赦すというのは、決して過去を水に流して、仲良くしなければいけないということではない。過去のことに引っかからず、気にしないようにし、さらに、気にならないようになっていくことだ。だから、まず赦すことが必要だ。そうすることで、初めて自由になることができる。

結局、私のこうした経験は、今のビ商売に対する考え方や、生き方をつくるために必要だったのかもしれない。この経験が今の私を作っているし、こうした経験が誰かの役に立つのだから、それでよかったのだろう。

内田游雲
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