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日本は資本主義の国であり、経営者は「もっと稼ぎたい」という野心を持つべきだ。クラーク博士の「Boys, be ambitious」は本来「野心を持て」という意味であり、日本人は遠慮しすぎている。仏教の「知足」は欲を抑える思想だが、キリスト教の「求めよ、さらば与えられん」は積極的に欲望を叶える考え方だ。現状に満足し「人生はこんなもの」と思えば成長は止まる。お金を求めることを悪とせず、資本主義を生き抜くために堂々と稼ぐ決断をしよう。(内田游雲)
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内田游雲(うちだ ゆううん)
ビジネスコンサルタント、経営思想家、占術家。静岡県静岡市に生まれる。中小企業経営者に向けてのコンサルティングやコーチングを専門に行っている。30年以上の会社経営と占術研究による経験に裏打ちされた実践的指導には定評がある。本サイトのテーマ「気の経営」とは、この世界の法則や社会の仕組みを理解し、時流を見極めてスモールビジネス経営を考えることである。他にも運をテーマにしたブログ「運の研究-洩天機-」を運営している。座右の銘は 、「木鶏」「千思万考」。世界の動きや変化を先取りする情報を提供する【気の経営(メルマガ編)】も発行中(無料)
小さな会社を経営していると、毎日の資金繰りや新規顧客の開拓、人材確保などで頭がいっぱいになることが多い。
しかし、まず大前提として知っておくべきなのは、日本という国が「資本主義」のもとで回っているという事実だ。
資本主義の中でお金を稼ぐ意義
資本主義とは、お金が無ければ何も始まらない世界でもある。
だからこそ、お金を稼ぐことを“悪”と捉えてはいけない。
むしろ、稼ぐことで自社のサービスを広げ、社員の給与を上げ、社会に価値を提供できるようになる。
「お金は目的ではなく手段だ」
とよく言うが、手段であっても不足すると動きが取れなくなるのが資本主義の現実だ。
例えば、新しい設備投資をしたいと思っても、十分な資金がなければ機会を逃してしまう。
宣伝広告を出して認知度を上げたくても、お金がなければ見える化も難しい。
何をするにも資本が必要であり、それが事業成長のエンジンになっていく。
「稼ぐ」という言葉に抵抗を覚える経営者は少なくない。
日本人は昔から、控えめであれ、協調性を重んじよ、与えられた中で満足しろ、という風土のもとで生きてきた部分が大きい。
しかし、資本主義のステージに立つ以上、そこに合わせた考え方にシフトする必要がある。
遠慮がちに
「うちくらいの規模ならそこそこでいいや」
と思っていると、どんどん競合企業にシェアを奪われてしまうかもしれない。
経営は戦いだと言うと少し大げさに聞こえるが、実際に市場では常に競争が行われている。
売上が伸びれば税金も社員の福利厚生も賄えるし、さらなる投資も可能になる。
逆にお金を稼がなければ、
「思うように動けない」
状態が延々と続き、結果として現状維持すらままならなくなる。
だからこそ、
「もっと稼ぎたい」
そう思う意欲を持つのは、資本主義下で会社を続けるうえで自然な姿なのだ。
クラーク博士と野心の意味
日本人が「野心」を声高に叫ぶことには、どこか照れや抵抗がある。
だが、そのマインドブロックを外すヒントとして、クラーク博士の有名な言葉「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」を振り返りたい。
札幌農学校(現在の北海道大学)で教鞭をとったアメリカ人のウィリアム・スミス・クラーク博士は、日本人に対して
「もっと自分の欲望を解放し、人生を切り拓く野心を持て」
とエールを送ったのだ。
ところが、日本語訳として定着したのは
「少年よ、大志を抱け」
という表現だった。
「大志」と言われると、なんだか高尚な目標や、世のため人のためという印象が強まる。
一方で、英語の“ambitious”はどちらかというと
「野心的だ」
「欲望に忠実だ」
というニュアンスが強い。
つまりクラーク博士は、未来ある若者に
「もっとガツガツと挑戦してほしい」
と呼びかけていたわけである。
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アメリカのように開拓精神を重んじる社会では、野心を表に出すことは当たり前だ。
「自分こそ一番になりたい」
「大金を手に入れたい」
と公言しても、周囲は
「いいじゃないか、その意気だ」
と応援する。
その一方で、日本には江戸時代の身分制度などの歴史的背景もあって、
「出る杭は打たれる」
といった抑制の美学が根付いている。
周囲と大きく違う動きをすることに抵抗を感じる傾向があるため、野心は敬遠されがちだ。
しかし、経営者という立場からすれば、野心を封印するのはもったいない。
小さな会社ほど経営者の意志がダイレクトに反映されるからだ。
「こうなりたい」
という強い欲望がなければ、日々の問題に忙殺されて終わってしまうだろう。
せっかく資本主義のルールの中で勝負するのだから、遠慮なく野心を解き放ち、
「全身が震えるほどに『金持ちになりたい』という欲望に染まる」
くらいの強さを持ってもいいはずだ。
そこまでの情熱がないと、競争相手に差をつけるどころか、追い抜かれ、取り残されてしまう可能性は高い。
仏教とキリスト教の文化の違い
日本人の中に根付く
「ほどほどでいい」
「与えられた中で満足する」
という考え方には、仏教の
「知足(足るを知る)」
思想が大きく関わっている。
仏教では、人間の欲望は限りなく続くため、どこまでいっても“もっと欲しい”という気持ちは止まらないと説く。
欲望が強ければ強いほど、苦しみも増す。
だからこそ、
「足るを知る」
ことが心の平穏を保つ秘訣だとされる。
一方で、キリスト教には
「神に求めよ。さらば与えられん」
という言葉がある。
自分の願望をしっかり神に訴えれば、それに応じた道が用意されるという考え方だ。
つまり、
「欲すること」
自体を否定せず、むしろ前向きに捉える側面がある。
もちろん、キリスト教の国でも節度は求められるが、自分の欲や目標を堂々と口にしても罪悪感を抱く必要が比較的少ない。
この二つの対照的な文化や宗教観は、日本人にとって大きな影響を与えてきた。
学校教育や社会の常識の中にも、
「贅沢は敵だ」
「欲しがりません勝つまでは」
的な発想が混じりやすい。
そのため、
「もっと稼ぎたい」
という願望を持ったとしても、どこか恥ずかしさを感じたり、強欲と誤解されたくないという気持ちが働いたりする。
だが、小さな会社を資本主義のフィールドで大きく育てようとするなら、野心的にお金を求めることを罪悪視する必要はない。
仏教の知足は欲望の暴走を制御するための智慧であり、すべてを否定する教えではない。
むしろ、
「今あるリソースや現実を直視しつつ、さらに上を目指す」
ためのバランス感覚と捉えるとよい。
何も考えずに突っ走るとリスクを見誤るが、知足の視点を持つことで冷静な判断を下せるようになる。
一方、
「もっと稼ぎたい」
と神に求めるキリスト教的な強い意志が加われば、結果を引き寄せる推進力が生まれるかもしれない。
「人生はこんなもの」からの脱出
小さな会社の経営が思うようにいかないとき、
「まあ人生なんてこんなものだ」
と諦めてはいないだろうか。
あるいは、売上不振や採用難に直面して
「うちの規模じゃ仕方ない」
と最初から決めつけてしまってはいないだろうか。
実は、
「人生はこんなものだ」
と思い込むことこそが、会社の未来を閉ざす大きな要因になっている。
経営者が
「もうこれ以上は無理だ」
と思えば、その瞬間に成長への挑戦はストップする。
例えば、新サービスに踏み出すのをやめ、人材に投資するのも消極的になり、現状維持を優先してしまう。
だが、資本主義の世界は常に動いていて、周囲の企業は日々新しいアイデアを試している。
自分たちが立ち止まっている間に、市場でのポジションは容赦なく奪われかねない。
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「もっと稼ぎたい」
「もっと大きくなりたい」
という気持ちは、会社を前進させるエンジンだ。
確かに大企業のような潤沢な資本やブランド力はないかもしれない。
それでも、小さい会社は意思決定が早く、柔軟に動けるという強みがある。
そこに経営者の野心が合わさると、大企業には真似できないスピード感やきめ細やかなサービスで勝負できる可能性が広がる。
「人生はこんなもの」
という思い込みを捨てるには、まず強い目的意識を持つことが大切だ。
なぜもっと稼ぎたいのか、どのようなビジョンを描いているのか、自分や社員、顧客にとってのメリットは何か。
それが明確であれば、多少の困難があっても諦めずに踏ん張れる。
逆に目標やビジョンが曖昧だと、ちょっとした壁にぶつかっただけで
「やっぱり無理か」
となりがちだ。
周囲から
「欲深い」
「出しゃばりすぎ」
と言われることを恐れず、
「こんなもの」
と枠を決めずに走り続ける。
そうすれば、やがて新しい景色が見えるようになる。
もっとお金を稼ぐ覚悟を持て
経営者にとって、
「もっと稼ぐぞ」
という気持ちを抱くことは、決して卑しい行為ではない。
むしろ、それを抱かないまま放置すると、いずれお金のために大きな犠牲を払わなければならない状況になりかねない。
たとえば、予算不足で優秀な人材を雇えなかったり、設備更新が間に合わず取引先から見限られたり、タイミングを逃してビジネスチャンスを逸したり、そうした事態はまさに
「お金が足りない」
ことで起こる悲劇だ。
もしすでに資産が潤沢で
「金に困らない」
という状態なら、そこまで血眼になって稼ぐ必要はないかもしれない。
しかし、多くの小さな会社はそうではない。
だからこそ、
「もっと稼ぎたい」
という欲望をはっきりと自覚し、それを会社の成長や社員の幸せにつなげる努力をすることが大切になる。
野心を支える行動としては、まずは現状のビジネスモデルや収益構造の見直しを徹底するのが基本だ。
利益率が低いのはなぜか、価格設定は適正か、顧客のニーズに合った商品やサービスを提供できているのか。
こうした分析を行いながら、新しい市場を開拓したり、付加価値の高い商品を開発したりして利益を上げる仕組みを作る。
資本主義では、利益を最大化することが当たり前の戦略になる。
そのうえで、必要ならば資金調達の方法も検討する。
基本的には、借り入れはできるだけ市内方が良いが、借入を極端に恐れるのではなく、正しい見込みと計画をもってリスクをとり、大きなリターンを目指す。
こうした積極的な姿勢は、経営者自身が
「もっと稼ぎたい」
と明確に思っていなければ生まれない。
曖昧な気持ちで取り組んでいては、融資や投資を受ける側も納得させられないし、ビジョンを示せなければ社員にも伝わらない。
結局、
「もっと稼ぐ覚悟」
がなければ、長期的に見て会社を存続させることすら危うい。
お金は経営者が活用すべき道具であり、豊かさを創出する原動力だ。
その道具をしっかり手にして操るために、遠慮なく野心を抱いてほしい。
未来を切り拓く小さな会社の決断
資本主義の世界で小さな会社を存続・発展させるためには、経営者自身が強い意志を持ち、野心を燃やし続けることが不可欠だ。
「これくらいで十分」
「人生はこんなものだ」
と思い込むと、一気に成長の芽はしぼんでしまう。
ここで改めて強調したいのは、
「金を求めること」
は悪ではないという事実だ。
仏教の知足を意識しながらも、キリスト教的な
「神に求めよ。さらば与えられん」
の精神を加味すると、企業としてのチャレンジはより実りあるものになる。
過度な欲望は確かに苦しみを生みがちだが、まったく欲がなければ新しい価値を生み出すエネルギーもわいてこない。
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全身が震えるほどに
「金持ちになりたい」
という欲望に染まることは、大げさに聞こえるかもしれない。
しかし、その強い欲望があるからこそ、困難を乗り越え、社員を鼓舞し、新たな販路を開拓し、顧客に魅力を伝えることができる。
お金を稼ぐからこそ、より良い製品を開発し、社会に貢献し、社員を幸せにできるチャンスをつかめる。
「いずれ金のために多くの犠牲を払うくらいなら、最初からガッツリ稼ぐ道を探る」
これはすこし乱暴な言い方かもしれないが、実際にそう考えて動く経営者ほど、資本主義の荒波を自在に乗りこなすようになる。
稼げば会社は潤い、投資を回しやすくなり、結果的に社会に対しても幅広い価値を提供できる。
結局、最後にものを言うのは経営者の「決断」だ。
「もっと稼ぐ」
「もっと野心的になる」
と腹を括れば、必要な情報が集まり、人脈が生まれ、やるべき行動が自然と見えてくる。
クラーク博士の言うように、遠慮はいらない。
「少年よ、大志を抱け」
の真意は
「野心を持て」
ということ。
小さな会社の経営者こそ、このメッセージを強く胸に刻み、未来への扉を自ら開いていってほしい。
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